松尾匡氏からのコメント感謝/「はだかの王様」と個人消費vs設備投資(ver1.0)

(『「はだかの王様」の経済学』読了後に末尾追記/2008.6.28)

山形浩生氏による『「はだかの王様」の経済学』批判を受けての、「著者の松尾匡氏からの反論」について部分的に指摘させて頂いた前回エントリー松尾氏からコメントを頂けた。経済素人へのご指摘、とてもありがたく感じている。

そして議論の土台を知るためと、感謝の意味もこめて同書を注文させて頂いた。正直なところ同書を読んでから書くべきか迷ったが、せっかくコメントを頂いたこともあり、届いたらまた勉強させて頂き何か思うところがあれば別途書くとして、私がとても気になった「個人消費vs設備投資」の箇所にフォーカスして進めていきたいと思う。

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学

今回のエントリーでは、松尾氏からのコメントの中で私の間違いや細部のご指摘はさておき「ご議論は私の言っていることと矛盾するものではなく、むしろ、解説の一つをしていただいているということです。 」というところを熟考して、考え方の相違点となっているポイントを整理してみたいと思う。


まず最初にお詫び。私は数字としてはGDP統計値しか見てなくて、その部分でも思い込み(消費と輸入の関係、住宅投資など)は申し訳ない点が多い。そもそも、何でこの議論に反応したかと言えば、過去に日本のGDP統計を見て、会社の決算書を読むような感覚で、日本経済で起きていることや今後起きそうなことを大まかに解釈できないかなと考えた事があったからだ。

その際、GDP統計の推移を見て分かったことは、輸出入が猛烈な勢いで増えていること。また、設備投資が増えていることに気付いて、「グローバリゼーションが急速に進んで、結果として国内の設備投資が増えている」と解釈していた。

暦年 家計最終消費支出 民間企業設備 財貨サービス輸出 財貨サービス輸入
1999年 278 68.2 51.1 43.2
2007年 287 81.4 90.8 82.2

単位:兆円
1次速報値 <平成20年5月16日公表>の名目暦年値より*1


景気が特に落ち込んだ99年と昨年07年を比較すると上記表のようになる。単純に輸出財の生産が40兆円弱増えて、輸入もほぼ同額が増えた。これは工業製品を中心とした財を輸出している日本の輸出が8年間で1.8倍弱にも増えたことでもある。

ここからは、根拠があまりない直感的な考え*2だが、先のエントリーのテーマとして書いた通り、所得格差拡大も、非正規雇用の問題もこのグローバリゼーションによる産業構造の変化が根本原因にあると私は思っている。これだけインパクトがある裏事情があるから、松尾氏の設備投資についての主張(反論コラム)で一番欠けている視点は、グローバリゼーションではないかと思ったのだ。


私は根本的にマルクス経済学の話をしているということを無視して、松尾氏の設備投資の話がどこかおかしいと感じて反論した。一方、山形氏はマルクス経済学についての批判的な立場から、松尾氏の揚げ足を取りつつ大暴走したように思える。



個人消費が多いとハッピーで、設備投資が増えるとアンハッピーだ。

普通に日本経済を考えていて、上記のような主張を聞いたところ、私は混乱した。ここで個人消費は単に「賃金が上がっているか下がっているか」「家計の消費意欲が高いか低いか」という点と連動しているように思える。なぜなら、バブル期以降の日本は生産力過剰で、供給サイドは常にギリギリの製造・販売努力をしていて、需要サイドが消費を決定している面が強いように思えるからだ。

だから、現在の日本の情勢としては、設備投資を減らして、生産資源を消費財生産に回しても、在庫が積みあがる傾向が出たり生産性が落ちるだけに思えてしまう。


一方で極めて資本主義的な発想だが、賃金(先に企業収益)を増やすためには、国際競争に勝てるような高機能の高付加価値商品を生産する必要があり、そのために資本集約的な生産を行うことが良いことに思える。そして、結果、設備投資が増える。一方で設備投資をしないと国際競争に負けて、GDPは低下して賃金も下がる。

ただ、こうして競争中心に考えていると気付きにくいのだが、個人消費を増やすという所をよく考えてみると1つ気付くことがある。「労働分配率」だ。賃金が増えれば個人消費が増える。個人消費が増えると設備投資も需要増に応じて増えるような気もするが、元々が生産力過剰だから、まあニュートラルだろうか。

なお誤解してはならないのは、この話は、均衡的な成長径路の話です。失業者蔓延の状態から完全雇用にもっていくには経済成長が必要ですが、この場合の成長は話が別であって、極論すれば設備投資が一切無くても可能です。全部消費需要が増大することによっても実現できる。まあそれは現実の資本主義経済では無理でしょうけど、でもいくらなんでも、GDPの増大分がひとつも消費の増大ではない、こんな景気回復なんて、そりゃないでしょうと僕は思います。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_80618.html

上記をもっとしっかりと読み込んでおけば、最初から今回のような指摘ができた気がする。

松尾氏の説明は、出発点が「設備投資の自己目的的拡大に奉仕」なので、いろいろ無理がある説明になっていて、そこに私の主張が出てきた原因があると思う。これだけ金利が低く、資金が余っている(余るほど金融緩和されている)上に安い労働力にも余剰がある社会なので、「個人消費財生産vs設備投資財生産」は対立する要素ではなく、それぞれ独立した話で「均衡的な成長径路」という想定自体が極めて非現実的な条件設定に思えてくるのだ。

やはり聡明が経済学者である松尾氏が、マルクス疎外論?)に影響にされて、偏った解説をしているように思える。

なお、下記の山形氏の批判に対する、松尾氏の反論はある程度、正しいように思う。

最終的な財の生産につながらずにひたすら設備投資だけが「自己目的」として増えるなんてことがあるわけないだろ!

 「最終的な財」ということで何をイメージされているかわかりませんが、消費財ということならば、いやこれがあるんですよ!
 その昔、マルクス経済学の恐慌論に「過少消費説」というのがありました。景気がよくなってどんどん設備投資が膨らんでいったら、どこかでそれが大量の消費財を生み出す時期がやってきて、現実の需要をオーバーしてしまって恐慌になっちゃうというもの。ま、現実にはこんな感じで不況になるケースも、たしかにあるのでしょうけど、だから投資の自己拡大は持続し得ないのだという議論をする人は、今日では、マルクス経済学でも主流派経済学でもいないと思います。消費につながらない設備投資の拡大が持続する可能性はあるのです。
http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html#sec2:Title

ただ、これは極論(松尾氏)に対しての極論(山形氏)に対しての常識論(松尾氏)に思える。最初の極論は孫引用で申し訳ないが、やっぱり以下につきるような気がする。

本来私たちは、豊かで楽しいくらしをするために働いているはずです。機械や工場は元来そのための手段にすぎなかったはずです。(中略)ところが今は、そんなものをふくらませることがいつの間にか自己目的になってしまって、人間のくらしがその手段として犠牲にさせられているのです。今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる一方で、工場も、オフィスも、私たちの自由にコントロールできないものばかりが、ますます立派になって膨張していくでしょう。

これは下記とあわせて読むと、松尾氏の主張も分かってくる。

それで、私が言いたかったのは、どの均衡にするかは私達が選べるべきではないかということです。

賃金デフレの脱却が一番遅れた。相対価格が歪んだわけです。それを反映して資源配分も、投資財生産に向かう割合が増えた。誰のための景気回復なのか。これは望んでいた景気回復の姿ではないと言っているわけです。

上記の説明も、需要主導の話として明確に記載があれば理解できるが、相対価格からの資源配分という表現ではワンクッションあり、「個人消費vs設備投資」に話を帰結させるための変換があるので、分かりにくい面がある。また、「個人消費財生産への資源配分を増やせばハッピー」という供給主導の話をされているイメージがあり、マルクス経済学はトンデモないことを主張するのだと感じさせてしまう。

ただ、今回いろいろと整理してみて、高収益な「企業」が収益を上げ続けるということを「目的」として、非正規雇用の低賃金で「労働者」を使うことをストップさせなければ、「非正規雇用労働者」そして「日本」は救われないという解釈でいいとの思いは強まった。

これは、まあ結局は「企業」という存在に「労働者」が「疎外」されているということであり、企業をコントロールせよ、高収益企業は非正規雇用者に対しての労働分配率を上げろという話であり、まあ上手く繋がったということになるとも思う。

他にも国際分業によって、日本国内で資本集約産業が発達し、労働集約産業は衰退した。労働集約産業の労働者は「疎外」さているとも言えるかもしれない。ただ、こちらは豊かな社会を実現するための必要悪という面があるような気もする。


ただ、やはり今回の議論は突っ込んで考えていくと、疎外や「コントロールできる/できない」という部分に導くために松尾氏が無理をしているところがあり、詳しくは同書を読んでみたいと分からない部分もあるが、下記の、山形氏の痛烈な主張に軍配が上がる面があるように思える。

 そして、ここで本書を読む上で気をつけるべきキーワードが出てくる。「コントロールできる/できない」というものだ。これはどういう意味だろうか? 人は、自分のやる設備投資はコントロールできるし、実際にしている。ただ、社会全体の設備投資水準は、自分一人がやることじゃないから、自分では完全にコントロールできないだろう。でもそれは「コントロールできない」というべきか? 完全に自分の思い通りにする、という意味ならコントロールできないかもしれない。でも、自分が自分なりの考えにしたがって設備投資水準を決めて、自分のやったこと――自分の意志――が全体の動向に(微々たるものではあれ)影響を与えているという意味では、自分のコントロールもある程度入っている。

 これから見ることだけれど、松尾は本書でこの二つの意味を(おそらくは意図的に)混同してみせる。

 まとめよう。松尾はどうも具体的な設備投資のイメージを持っていない(ということは、財やサービスの生産というプロセス自体を具体的には理解していない)ということが一つ。さらにかれが「自由にコントロールできない」というものは、実際にはコントロールできるものも多いし、またコントロールできないように見えるのは単にそれがマクロの事後的なアグリゲートの結果だからという場合も十分にあり得る。「コントロール」ということばを歪曲して何やら理屈を紡ごうとしてるんじゃないか? かれは誤解に基づき、ありもしない観念の抑圧を見ているんじゃないか?
http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html#sec2


一方で、「松尾はどうも具体的な設備投資のイメージを持っていない」や、下記の部分は山形氏の勇み足の部分があるだろう。

 松尾はこうした設備投資にかかわる具体的な職場を知らず、「機械/設備は労働を置きかえるものであり、失業を生んで人間を疎外するものである」という労組的マルクス主義じみた思いこみをだらしなく垂れ流しているだけだ。
http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html#sec2

ひとまずのまとめは以上として、同書を読んで何か思うところがあれば、追記もしくは、続きエントリーを書きたいと思う。(思うところがなければ、本件はこれでオシマイ)


追記(2008.6.28)
読了。特に上記文章を修正する必要性は感じなかった。

哲学や思想については、私は無教養かつ興味が薄い苦手分野なのだが、正直「疎外」どうのこうのっていうのは山形氏や池田信夫氏のように強い批判対象という印象は抱かなかった一方で、単純なゲーム理論を持ち出して多くのページを割いてまでこだわる必要性はないように思えた。

本書の章組みも微妙で、同意できない部分も含めて疎外やマル経の話しが先行して展開され、それがあたかも推理小説の伏線のような感じで後の章で「ほら、前出のあれはこういうふうに説明できる」という感じのパターンが多く出てくる。これはこっちが小馬鹿にされた感じがするか、もしくは著者がアホに見えるので、なんとなくだが山形氏がブチ切れて、フルボッコ批評を出すのも分かる気がする。

一方で、「疎外」とか「マル経擁護」を除いて考えると(分量はきっと1/5程度に減るけど)、いい指摘もあった。確かに、手段と目的の混同して、過酷な競争社会で勝利することが自己目的化している部分がいまの日本社会にはあると思うし、仕事が自己目的化している人間というのは結構多いと思う(p252,「くらしを犠牲にして労働能力を磨く」他)。「搾取」が増えているというのもその通りだろう。また「日本型とアメリカ型の二つのナッシュ均衡」は私も似たようなことを「部分最適解」という表現で過去に書いていて、同感だ。

私は起業願望ということもあってマルクスよりドラッガーだが、社会全体の幸せということを念頭に、今の時代を生き抜いていかなければいけないというところでは、こういう考え方もあるんだ、という点で勉強になったと思う。

ただ、私が戦慄すべきと感じたのは、今と今後について語っている本書8章の内容の薄さだ。アソシエーションとか、市民参加のネットワーク、ニーズに基づく生産のネットワークとか、とたんに陳腐と思えるような内容が羅列されているように思えるが、はたしてそんなことで社会全体が幸せになるだろうか。

また、独裁がなければ社会主義は資本主義より上手くいくと言っているように聞こえるのだが、本気でそう考えているのだろうか。マルクスは19世紀当時に先端の社会分析を行い、労働者擁護のための理論を展開して、実際に社会改革(革命)を主導した。ただ現状分析は良かったものの、あるべき社会という部分で詰めが甘かったのだと私は思っている*3。本書での松尾氏の主張は、今となっては古いマルクスの経済分析や、疎外論という思想を持ち出して現代にあてはめつつ、歴史的に失敗に終わった革命部分や古い理論を削除しているだけの、マルクス劣化コピーのような主張をしているように思える。

私が期待し待望しているのは、現在の日本経済に対して先端社会分析を行い、労働者擁護のための理論を展開して、実際に社会改革(政治)を主導する論説だ。私の妄想レベルでは既に8割方このブログに書いてきたような気もするが、いつかまとめてみたいと思う。(といっても、しばらく先になると思うので、もし興味がある方がいらしたらRSSリーダ登録して貰えると嬉しい)

*1:平成6年1-3月期〜平成20年1-3月期 1次速報値 <平成20年5月16日公表>の「実額の名目暦年値」http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/qe081/gdemenuja.html http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/qe081/gaku-mcy0811.csv

*2:研究者はデータを確認して、モデルを組んで責任ある発言をしなければいけない一方、シロウトは好き勝手言っているという点は認識しています。専門家の貴重な時間を無駄に浪費させているとしたら、大変失礼なことをしている点、お詫びいたします。

*3:没後に悪用されたらどうしようもないという部分も大きいかもしれないが