失われた17年と設備投資・グローバリゼーション

松尾匡氏の著書『「はだかの王様」の経済学』が、こっぴどく山形浩生氏に批判されていた。私は本書を読んでいない上にマルクス経済学も勉強したことがないのだが、山形氏が批判していた箇所で、明らかにおかしくて、別の説明がつくだろうという箇所があった。

それは「二〇〇七年までの景気回復は(中略)自分の身に帰ってくる財を作っているわけでは全然なく」という、松尾氏著書の主張の箇所だ。ちょっと周回遅れだけど、他に主張している人が見つからなかったので、前回エントリー「http://d.hatena.ne.jp/T-norf/20080616/Bubble:Title」の続きという意味も含めて書いてみたいと思う。

 二〇〇七年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。(中略)つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に帰ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を造ってあげるのに働いていることになるわけですね。(中略)

 本来私たちは、豊かで楽しいくらしをするために働いているはずです。機械や工場は元来そのための手段にすぎなかったはずです。(中略)ところが今は、そんなものをふくらませることがいつの間にか自己目的になってしまって、人間のくらしがその手段として犠牲にさせられているのです。今後このまま景気が拡大していったならば、あいかわらず生身の人間のほうはしんどいしんどいとハアハア言ってこき使われる一方で、工場も、オフィスも、私たちの自由にコントロールできないものばかりが、ますます立派になって膨張していくでしょう。(pp. v-vi)

 この下りではっきりわかること。この人、設備投資って何だかわかってないんだ。少しでもまともな仕事をやったことがある人ならすぐわかるけど、最終的な財の生産につながらずにひたすら設備投資だけが「自己目的」として増えるなんてことがあるわけないだろ! 設備ってたいがい、何か作るためのものなんだから。
http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html#sec2:Title

孫引用で申し訳ない。ただ、ここでの山形氏の批判に対して松尾氏は、以下のように反論を返している。

 あそこで私が言っていることは、このかんの景気回復によって、労働投入は増えているけど、消費は増えていなくて、最終生産物の増大は設備投資と純輸出の増大にまわっているのだということです。で、これが、消費として自分の身に返ってこないもののために労働が増えている、設備投資の自己目的的拡大に奉仕させられていると、私は批判しているわけですね。
 それに対して、山形さんは次のようにおっしゃっています。

 最終的な財の生産につながらずにひたすら設備投資だけが「自己目的」として増えるなんてことがあるわけないだろ!

 「最終的な財」ということで何をイメージされているかわかりませんが、消費財ということならば、いやこれがあるんですよ!
 その昔、マルクス経済学の恐慌論に「過少消費説」というのがありました。景気がよくなってどんどん設備投資が膨らんでいったら、どこかでそれが大量の消費財を生み出す時期がやってきて、現実の需要をオーバーしてしまって恐慌になっちゃうというもの。ま、現実にはこんな感じで不況になるケースも、たしかにあるのでしょうけど、だから投資の自己拡大は持続し得ないのだという議論をする人は、今日では、マルクス経済学でも主流派経済学でもいないと思います。消費につながらない設備投資の拡大が持続する可能性はあるのです。
 労働供給制約の話をわきに置いておけば、均衡的な成長径路は高いのから低いのまで連続無限個あって、それぞれに対応してGDPに占める投資の割合が高いのから低いのまで連続無限個あって、さらにそれぞれに対応して、生産資源が投資財部門に向けられる割合が高いのから消費財部門に向けられる割合が高いのまで連続無限個あります。そのそれぞれが全部、持続可能な一般均衡解なのです。(そのうちどれが一人当たり消費が一番大きいかは、いろいろな条件で決まるが、少なくとも言えるのは、GDPに占める投資の割合が高ければ高いほど一人当たり消費が高くなるなどということは決してないということ。)
 わかりやすいように、理論モデル上の極論を言えば、誰も一切消費せず、消費財部門が存在せず、人々が霞を食って働いて、ただひとえに投資財部門の設備投資のために投資財部門で生産が延々なされ続けるという状態も、均衡として存在し得るのです。こんなのは誰が考えても転倒した状況でしょう。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_80618.html:Title

以上の反論も踏まえて、私は、松尾氏の「設備投資と消費」についての感覚がとてもおかしく感じる。*1

日本の個人消費が落ち込んだのは、供給側の問題ではなく、需要側(消費者側)の消費意欲の問題ではないだろうか。仮に生産側に問題があるとした場合に、どういう理由で消費財の生産ではなく設備投資を選択するのであろうか。これの解は、松尾氏の考えに近いところから順に解説してみると。

  1. 企業としては、消費財を生産しても売れない。無理して売ろうとすると低価格の採算割れでしか売れないか、需要が飽和していて生産を増やしても、それ以上全く売れないという壁にぶつかるので消費財の生産は増えない。一方で、低金利政策が続いた。そして、低金利効果が一番出やすいのは、賃料収入が計算できるためリスクが低い(確実性が高い)投資である不動産投資だ。住宅投資はGDP集計にそれ専用の明細値があるが、オフィスビル建設への投資は「設備投資」の明細値に分類されると思うが、それが増えた影響があると思う。
  2. 不況対策で公共投資が増えた。公共投資に答えるために、若干ながら資本設備の生産が必要となる2次需要が出た。
  3. グローバリゼーション。労働集約的に生産する消費財は輸入に頼る。一方で日本が得意とするのは、自動車や精密機械など資本集約的に生産する製品だ。後者は高度な設備投資をしないと作れない。輸入される消費財GDP統計上には「輸入」としか現れないので、「輸入・輸出」が共に増えて、消費財の生産が減る。
  4. グローバリゼーション2。国際分業が進む結果、国内で生産される商品は、国際的な価格下落競争に巻き込まれる。同じ商品数量を消費していても、GDPデフレータ以上に価格が下がれば、消費は減ったと見なされる。

私は経済学は素人だけど、これはかなりの確率で正しいと思う。裏付けるデータは少ないが、下記の貿易量の資料なんかを見ると、これが家計消費の増減や、設備投資の増減と比較でどれほどインパクトがあるボリュームかは知らないが、GDPの2%前後を中国との貿易に費やしていることになり、先の「4.」の価格競争も含めて考えると、日本経済に大きな影響を与えているのは間違いないと思う。

http://www.jetro.go.jp/news/releases/20080228144-news:Title
http://www.nihonkaigaku.org/ham/eacoex/100econ/120doms/121prod/1212trad/jptrcnkr/jptrcnkr.html:Title

このグローバリゼーションの波は、1990年にベルリンの壁が崩壊したころから本格化し、世界経済に大きな影響を与えていると思う。日本の失われた17年の間には、特に中国製品の影響で、100均ショップなんかに置かれている製品を作っていた会社は国内生産はほぼ全滅しただろうし、なんとか生き残った会社も技術開発を行い、高度設備を導入(投資)して、より生産性が高い企業へと生まれ変わっていったのだと思う。

結果として、みんな苦労したし、これは失われた17年大不況の大きな原因だったと思う。海外製品との競争で商品価格が下落して生産性は落ちるし、生産性を高める改革を行うか、サービス残業なども含めて労働量投入を増やさざるを得ない時代になった。これは、べつに団塊の世代が悪いわけではない。単に内田樹氏が夢見るような牧歌的な古き良い時代が終わり、世界規模で競争しなければいけない相手が増えただけだと思う。


そして、この結果として日本国内で重要な富の転移がおきていると思う。輸出力のある資本集約的な大企業の収益が増えて、労働集約的な中小企業の収益が落ちた。後者は労働分配率は限界に近いので、どうしても単純労働者を安い給与で雇用することになる。ただ、そうして給与が下がった非正規雇用者を中心とした労働力市場を活用して、グローバリゼーションで輸出をして儲けているような企業までが安い労働力を酷使するようになった。

これはおかしい。労働者保護のために、何か規制や救済策を儲けるべきだと思う。あと、こういった輸出力のある高収益企業の高給取りの社員の「残業」に対しては、ペナルティー的な特殊法人税をかけるといいと思う。リッチな人間に余暇を与えて、消費を拡大して貰わないことには、日本経済はどうにもこうにも厳しい。多少、生産が海外へ流出する影響もあるだろうが、ワークシェア効果も出ると思うので、ぜひ実施して欲しい政策の1つだ。


あと、松尾氏の主張で1点大きな疑問を感じるところがあるのだが、「自分の身に帰ってくる財」が「消費財」ではなく、「お金の貯蓄」であったり「住宅投資」であっても、豊かになれると思う。今回の件の著書を読んでいないので、別の箇所で、貯蓄率の低下なども問題にしているようだったら申し訳ないが、今回の反論は、聡明な先生がマルクスに影響されすぎて、かなりおかしな説明をしているように思えた。いかがだろう。

*1:理論モデル上の極論ってのも、ツッコミポイントのような気がするけど、論点がぼやけるのでスルー